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私とスペシフィック・カイロプラクティック



 

 

これは、40年近く、スペシフィック・カイロプラクティックひと筋に向き合ってきた私が、古希を機に、折にふれてつづるエッセイです。

 

目次

幼少期からの苦悩

私は、幼少期に死に直面したことが三度ありました。一度目は、頭から側溝に真っ逆さまに突っ込み、仮死状態になってしまい、二度目は、寺の台所で、一抱えもある大やかんの熱湯を頭から浴びて、半身大ヤケド。三度目は、6歳のとき、1年間小児結核を患って臥せるというありさまでした。病気や事故に加えて、母の実家が禅寺だったこともあってか、子どもながらに死について考え込むことが多く、そのつど絶望的になっていました。さらに、葬式や墓を見るたびに死を思い浮かべてしまうのです。若干10歳に満たない子どもなのに、たえず死の恐怖に苛まれていたように記憶しています
 また、繰り返し見る夜の夢も恐怖の一つでした。宇宙に吸い込まれ、自分の存在がなくなってしまうのです。それは、目が覚めてもすぐには夢だったと思えず、自分の存在が信じられないほどの怖さだったのです。
これらの怖さを紛らわせてくれたのは、異性への興味とアメリカ映画でした。しかし、それは束の間の紛わせにすぎず、根本的な解決ではありません。私が知りたかったのは、「生きるとは何か?死ぬとは何か?」そして「人間とは何だろうか?」ということだったのです。
そのような中で少しずつ成長するにつけ、思い至ったのは、「人は誰もいずれ死ぬ。それなら、生きている間、自分がほんとうにやりたいことをやろう。やるべきことをやって人生を終えよう」ということでした。大学を卒業するや、自分がほんとうにやりたいことを求めて、世界へ放浪の旅に出ました。発展途上国なども含め、多くの国を旅し、ある国に永住することも考えました。

スペシフィックと出会う

それらを経たのち、30歳目前の頃、スペシフィック・カイロプラクティック(B.J.パーマーによって確立された独自のカイロプラクティック。)と出合ったのです。
私は、それまでにも指圧をはじめ、さまざまなことを試みていました。が、いずれもこれだ、と確信の持てるものではありませんでした。施術を受ける患者のその場での気持ちよさが主になり、人間の本質に迫っているとは感じられなかったのです。
しかし、スペシフィック・カイロプラクティック(以下スペシフィック、あるいはカイロプラクティックと略)は、一般にカイロプラクティックと呼ばれているものとはまるで異なるものでした。それは、一ヵ所の治療で、しかも一回の治療で身体のいたるところの問題が治るというもので、当時の私には魔法のようにすら映りました。
スペシフィックの根幹である、上部頸椎(首の骨の一番上と二番目)の施術には理論がありました。そこには、私が求めていた「人間とは何か?」の答えがあるようにも思えたのです。
少し説明を加えると、当時の上部頸椎は、H・I・O(1ヵ所ですべての答えが出ることから、ホールインワンを略してHIO。この名前はB.J.パーマーの造語)やターグルリコイルという技術論で、全体を捉えてはいませんでした。一方、B.J.パーマーは34巻の著書によって、哲学的見地からカイロプラクティックを説いていたのです。神秘的な本質と真理に惹かれ、私は膨大な量の著書を読み、学び続けました。が、まだ独り立ちには至っていませんでした。

トム・ジェラルディ氏との縁 そして、それからの広がり

そのようなとき、1985年、講演のために来日した、カイロプラクティック界の屈指の偉才、シャーマン大学学長トム・ジェラルディ先生とのご縁ができたのです。その縁は、たちまち私を破格の厚遇でシャーマン大学への留学へと導いたのでした。留学はわずか半年間の短い期間でしたが、私自身が求めていたものと符合したからでしょうか、眠る時間を惜しんで学び続けたものでした。ただひたすら、真のカイロプラクティックの神髄に触れる、ということを目指していました。この時期、得たものは、以後、ずっと私の基盤となり、支えとなっている至宝です。
留学期、ステファン・ダフ博士の知遇を受けたことは感謝しきれない幸運の一つです。博士によって初めて「B.J.パーマーが行っていたのは、H・I・Oでもターグルリコイルでもなく、スペシフィックである」と教えられたのでした。ダフ博士は、「カイロプラクティックとはスペシフィックであり、さもなければ取るに足りないものだ」「哲学、科学、芸術を表現できるのは、唯一スペシフィックしかない」と言い切っています。 
博士の話を聞きながら、感動を覚えました。そして、彼のオフィスや住居をたびたび訪問することになったのですが、さらに驚きました。そのオフィスとは大きな病院を買い取った、という大規模なもので、一方、自宅もサンフランシスコ郊外の高級住宅街にある豪華な邸宅だったのです。それらを目の当たりにし、博士の5人の子息がいずれもカイロプラクティック界で活躍しているという事実に、当時のアメリカの「上部頸椎スペシフィックの威力」に驚嘆し、私自身もこの道を進むべきだと確信したのです。私が日本でスペシフィックに出合い、「私が求めていたものはこれだ」と決心した際、周りの人たちの「そのようなもので、生活ができるわけがない」と反対した光景が頭を過りました。1980年代後半、日米のスペシフィックの状況には、かくばかりの差異があったのです。それだけに私は、日本でも真のスペシフィックを紹介しよう、と熱い思いに駆られていました。
ダフ博士に紹介された、カイロプラクティックの大本山パーマー大学の教授、クラウダー博士からも彼のクリニックで施術に立ち会うなど、上部頸椎について懇切な手ほどきを受けました。またケール博士とも何度も話をしたばかりか、彼がN・C・M機器の販売会社も経営していたので、そこから機器を購入することもありました。ほかにもスペシフィック関係の大物たちとの知遇を受け、充実の月日でした。これら四者のうち現存しておられるのは、88歳で今も現役のジェラルディ博士だけです。私に惜しみなくスペシフィックを教授してくれた4人の博士たちのうち、私がとりわけ魅かれたのは公私ともに目にかけてくれたダフ博士でした。
話を本題に戻しましょう。
カイロプラクティックには、サイドポスチャー型(横向きに臥せた状態での施術)とニーチェスト型(うつ伏せの状態での施術)があります。当時、ニーチェストが主流でしたが、パーマー大学スペシフィッククラス1947年の卒業生たちは、B.J.パーマーの流れを汲んだサイドポスチャー派で、成功を収めていました。
私は40年にわたって上部頸椎の施術を行い、生命体全体を診るスペシフィック歴は35年になります。しかしその間、上部頸椎以外の背骨や関節などを診る類のアジャストメント(調整)を行ったことは一度もありません。上部頸椎の施術に徹してきました。B.J.パーマーが提起し、その卒業生たちが継承し続けてきたその流れを私自身も受け継ぎ、研鑽を積んできました。
繰り返しになりますが、それは、技術の上部頸椎ではなく、生命体を診るスペシフィックで、同時に生命体を究めるスペシフィックなのです。

ユニバーサル・イネイトからの考え方

スペシフィック哲学の原点はイネイト(先天的なもの)・ユニバーサル(自然)論です。
B.J.パーマーは、その著書グリーンブック32巻でも力説しているように、すべての考えはイネイト論から始まるのです。よって、人を診るとき、ユニバーサル・イネイト論で診なければ本質はわからないのです。

少し専門的になりますが、とても重要な部分ですので、お付き合いください。
物体と生命体の違いは生命反応があるか否か、です。そこで反応というのがキーポイントになりますが、反応を起こすためには刺激が必要です。生命は刺激と反応で成り立っているのです。
では、刺激と反応の関係とはいかなるものでしょうか。それを説く前に、イネイトとユニバーサルの関係に触れましょう。人間などの生命体を内と外に分けたとき、内がイネイト(先天的なもの)で、外がユニバーサル(自然)です。外が刺激、内が反応、これが人間の本質です。そして人は、イネイトが刺激と反応を繰り返すことによって学習し、心を構築し、やがてイネイトと心が一体となり、さらに刺激と反応を繰り返しながら生命を表現し続けるのです。 
B・J・パーマーの著書グリーンブックは、私のバイブルです。
イネイト(先天的なもの)を軸として人を診ることの重要性を説いたそれらの本を読んでいると、スペシフィックの本質、そして人間の本質が見えてきます。人は、生まれてから死ぬまでの限られた時間、刺激と反応を繰り返しながら生命を表現し、やがてユニバーサル(自然)によって淘汰(死)を迎えるという事実。人の体内循環の中で、神経系の伝達こそが最も重要なものであること。私は、B.J.パーマーが伝承したかったこれらのことを念頭に施術を行ってきましたし、今後も変わることはありません。
スペシフィックは、1ヵ所への刺激で身体に数多くの反応を起こします。身体はその繰り返しによって機能するわけです。その伝達と循環がうまくいっていると身体は健康ですが、伝達・循環がうまくいかないとき、異常が起こるのです。
スペシフィックのアジャスメント(調整)と呼ばれる施術とは、メンタルインパレスの伝達妨害の、サブラクセイション(すべての病気の原因であるという認識で使っていた言葉。上部頸椎が変位し、その不具合が神経を圧迫し、脳からの生命エネルギーの伝達を妨げている状態)を取り除くことなのです。

一途にスペシフィック

スペシフィックひと筋に35年を過ごした私ですが、還暦を過ぎた頃から何か疑問を感じることもありました。
たとえば、イネイトに委ねるというスペシフィック本来の思想と、患者の「治してください」という要望とのギャップが生じてきたように思えます。患者の要望だけでなく、時代の変遷とともに「自分のカイロプラクティックは現代においても真に求められているのだろうか」という疑問もありました。
思えば、私はスペシフィックの有効性を学び、立証することによって、達成感も得てきました。有名無名を問わずさまざまな人たちとも知り合い、最盛期の10年間には、2ヵ月先までの予約が入り、私一人ではこなせないほどの患者数でした。それでも、今までは、立ち止まったことも疑問を感じたこともありません。それなのに、最近、スペシフィックで哲学・科学・芸術を表現することを難しく感じるようになってきたのです。仕事はそれなりにうまくいっているにもかかわらず、スペシフィックが十分通じていないのではないか、というもどかしさを感じます。インターネットの時代性なのだろうか、あるいは年齢も関係しているのだろうか、などと。
そして迷路をさまよいながら気付いた答えは、社会への恩返しをしよう、ということでした。
私はスペシフィックを通じて、有形無形、物質的なもの精神的なものなど、何と多くのものを得てきたことでしょう。その時、その時、最善を尽くしながら、私自身、スペシフィックによって育てられたのです。
年齢的なこと、時代の変遷・・、それらはスペシフィックを止める理由にはなりません。答えを得た今、迷いや疑問に対しては今まで以上に学びに徹しよう。さらに研鑽を積もうと決意をしました。
その思いを支えるのはただ一つ。スペシフィックは無用かと自問すれば、NOだからです。現代こそ、今まで以上にスペシフィックが必要だといえます。すべてを西洋医学の基準で治療するというのは誤りです。それに気付きはじめた人たちも少なくありません。今こそ、西洋医学とは異なり、神経系の循環を診る、つまり体全体を診るスペシフィックが必要なのです。スペシフィックの真実が日本の社会にとって重要です。それならば、私の持てるすべてのものを伝え、施術を続けることこそ、育ててくれたスペシフィックへの、そして社会への恩返しです。
B・J・パーマー・カイロプラクティックの継承者の一人としての自覚が一段と強くなりました。一人でも多くの人たちに、対症療法などの早急の治癒ではなく、イネイト(先天的なもの)の答えを待つことの大切さを説いていきたいと思うのです。そして、私自身も駆けるのではなく、じっくりと語り続け、説き続けたいと決心を新たにしました。
今までは広く浅く人を診てきましたが、今後はたとえ狭くなろうともより深く人を診てゆくことになるでしょう。

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